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種沢の薬師如来三尊像(たねざわのやくしにょらいさんぞんぞう)
小国町指定文化財(彫刻第4号)
昭和58年3月31日
小国町大字種沢
大字種沢総代
像高96.2cm
肩張26.0cm
種沢は、小国盆地の南縁部、横川下流の同川左岸に位置する集落である。集落名”種沢”は、天文22年(1553)晴宗公采地下賜録(はるむねこうさいちかしろく)にも「たねさハのなぬし分」と見え、古くから歴史に名をとどめて来た集落である。この集落裏山に建つ薬師堂に町指定文化財 「種沢の薬師如来三尊像」が祀られている。薬師堂のある高台からは、眼下を横切って西流する横川越に、松岡、芹出、町原等の稲田を望むことができる。
ここに祀られている薬師如来三尊像は、薬師如来立像を中尊とし、脇侍として、日光、月光の両菩薩像を配置している。本尊である薬師如来立像は木造で内刳が施され、さらに背板をはめ、像高は96.2cmある。この像は、慶安元年(1648)と明治9年(1876)の二度に及ぶ火災で火傷を負ったが、光背、蓮座、薬壺、両手、両足等はその後補修されている。また、日光、月光の両脇侍は、高さが夫々69cmでほとんど同じであるが、内刳りはない。本尊と月光菩薩像の白毫(びゃくごう)は失われているが、日光菩薩の白毫だけはのこっている。
これらの像のいずれにも紀年銘は見えない。ただ、享保7年(1732)の縁起書によれば、「和銅5年(712)奥州厨川における泰澄大師の作」とされ、安倍貞任(あべのさだとう)が深く信仰していた薬師仏であったという。康平5年(1062)源義家が厨川に安倍貞任を攻めた時、敗れた貞任の残党が、常日頃貞任が信仰していた薬師如来像を背負って逃れて来たが、この村にたどりつくとどうしても動けなくなったので、この地に仏意があるものとして安置し奉った、との事である。
その後のある年の春、不純な天候に見舞われ村一帯の稲苗がほとんど全滅して困ったことがあった。しかし、不思議にもここの村の苗だけはかえって立派に育ち、このことが小国郷全域に伝わり無事田植えが出来たそうである。それは、ここに祀られている薬師如来のおかげであるといわれ、それからは参拝者も多くなり、更にその名も「種沢薬師」と呼ばれるようになったという。また、村名もいつとはなしに「種沢村」と呼ばれるようになったとの事である。
内刳のある薬師如来立像や、片方の膝を曲げ遊び足を表した日光・月光両菩薩の像姿から、この薬師如来三尊像は、当町では古い時代の作であろうと見られている。また、この地は、奥州と大和政権地域を結ぶ街道上にあったので、見事な三尊像が残された一因ではなかろうか、ともいわれている。