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日光院の聖徳太子像(にっこういんのしょうとくたいしぞう)
小国町指定文化財(彫刻第15号)
昭和60年3月31日
小国町大字太鼓沢
朝日山日光院(天台宗寺門派)
総高65.8cm
像高63.8cm
肩張19cm
太鼓沢は、町中心部から北方に14km程離れた荒川沿いの集落である。
この集落にある寺院、朝日山日光院に町指定文化財「日光院の聖徳太子像」が祀られている。
日光院は、本町では唯一の天台系寺院で、別名“朝日山済恩寺”とも呼ばれていたが、戦後宗教法人法改正に伴い、現在の名称朝日山日光院になったと言われている。
元をたどれば、この寺院は承久元年(1219)に修験の山である朝日山の先達をしていた徳網から太鼓沢に下り、以後明治5年太政官布告により修験道が廃止になるまで天台系修験の坊であったという。
日光院には、不動明王像と共に素朴な造りをした一体の木像が祀られている。この像は、着衣、髪形、履物などの像容から、聖徳太子「孝養像」を表したものとみられる。
像は、蓮華の台座に立ち、首を体躯に挿入した桂の一木造りで、髪は角髪(みずら)に結い、頭部中央で分けている。右手は腰のあたりに優しくあげ、左手には宝珠を持っている。袍衣を身に着け、その上に袈裟をつけ、沓をはいた姿である。
孝養像の多くは、持物に柄香炉を持つものが多いが、本像の場合には柄香炉ではなく宝珠を手にしている。造りもいたって素朴である。
背は平たく、像の高さは63.8cmある。優しい鼻や口とともに、微笑を含む顔立ちは、和やかな感じを抱かせる。
紀年銘には、享保十八年(1733年)癸丑十一月二十一日益運 馬場善左エ門□□とある(□:判読不明)。益運とは、足野水の生まれで、五味沢の長福寺の七世となり、後に小坂町の光岳寺十七世となった高い見識を持った住職と言われている。
この像は、光岳寺の住職益運の代に馬場氏から寄進されたものと思われる。しかし、日光院に祀られるようになった明確な理由はわかっていない。ただ、日光院が以前に長福寺の檀家であったという縁故説、熊野信仰と王子信仰・太子信仰との関わり説等が伝えられているが、いずれにしても、本像は、寄進されてから280年余もの長い間当寺に守り伝えられ来た歴史ある木像である。