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上杉景勝公御下賜の扇子(うえすぎかげかつこうごかしのせんす)

更新日:2018年11月13日更新 印刷ページ表示

上杉景勝公御下賜の扇子の画像

名称

上杉景勝公御下賜の扇子(うえすぎかげかつこうごかしのせんす)

指定区分

小国町指定文化財(工芸品第三号)

指定年月日

昭和59年3月31日

所在地

小国町大字小国小坂町

所有者(管理者)

個人

寸法

全長32cm

概要

これは、町内小坂町の木島家に、代々家宝として伝えられてきた上杉景勝公御下賜の扇子である。昭和59年3月、工芸品第三号として町の文化財に指定され、その後、昭和60年10月には『広報おぐに』で紹介された。指定時の『調書』や『広報おぐに』による木島家と扇子との関係、そして当時の史的状況は次のとおり。

「上杉景勝公が新発田城攻略の際、木島家の先祖(木島秀富)がめざましい奮闘をしたので、激賞された景勝公は自身の采配と扇子を贈ったと伝えられており、それがこの扇子である(広報おぐに)。

上杉景勝は新発田重家を攻め、越後統一を志してから5~6年が経過した天正15年(1587)3月、景勝も自ら出馬して本格的な新発田征討にのり出した。まず8月に赤谷城を攻略し、9月には五十公野(いじみの)城と新発田城を包囲すること1ケ月、10月23日直江指揮の軍は五十公野城を陥れ、次いで数日の戦いで上杉勢は新発田城に乱入した。この時、重家は負傷し、ついに25日城中において自害し、城は景勝の手中に落ちた(調書)」。

この扇子は、親骨と中骨、それらをおさえる扇の要とからできており、骨の数は合計10本ある。親骨と中骨に貼られた地紙は散らし金地で、端の方には二人の男の立ち姿が描かれている。二人はそれぞれ箒を持ち、福や幸運をかき集めているかのように見受けられる長さ32cmの素朴な筆致の墨絵である。