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大里峠の凶霊供養塔(おおりとうげのきょうれいくようとう)
小国町指定文化財(有形民俗史跡第1号)
昭和60年3月31日
小国町大字玉川
玉川地区
碑頂76cm
幅34cm
厚さ29.5cm
国道113号の、県境近くを流れる荒川と玉川の合流点付近から県道に入って南部に向かい、さらに6km程梅花皮荘(かいらぎそう)方面に進むと大里峠の登り口玉川集落に至る。ここから手の倉沢沿いに300mばかり登ったところに、町指定文化財「大里峠の凶霊供養塔」が建てられている。
これは、天明元年(1781)と嘉永七年(1854)の二度同じ場所で、ワスと呼ばれる表層雪崩に巻き込まれ亡くなった人たちを供養するために建てられた石碑である。
天明元年12月17日正午ごろ、26名の一行が手の倉沢付近を通行中、ワスの襲来により16名が沢に突き落とされその中の9名が死亡した。 「前日、長坂の宿に泊まった5人の旅人の内一人が、病気を患い、何としても米沢へ帰りたいと言うので沼駅から21名の人足を頼み、吹雪の時節雪車(橇=ソリ)に乗せ険難な大里峠を越え玉川に着こうとした矢先、手の倉沢でワスに襲われ遭難した」というものである。
天明の事故から73年後の嘉永7年12月17日(前回と同じ12月17日)、魔の雪崩場で再び大きな災害が発生した。この時犠牲者を出した家(玉川新田)には次のような話が伝えられている。
「荒島(現新潟県荒川町)から嫁いできた人が秋休みで実家に帰り休養していた。正月も近くなったので息子が迎えに行っての帰り道、息子はカンジキとコスキ(雪かき)をもって道付けをしながら来たが、わずか遅れて来た母親と7歳の子どもはワスに突き落とされ亡くなった。」
供養塔は、砂岩製で四角に組まれた台石の上に建てられており、側面には越後三番了 吉井屋兵左衛門と刻まれている。、建立年月日は風化により不明であるが、古記録によれば、安政二年(1855)六月、玉川で宿泊業を営む丸屋こと国仙屋七右エ門の世話で越後の吉井屋兵左エ門が建立したものであるという。
冬期間ここ旧越後街道を通る人はいなくなったが、この石碑は、”ワス”即ち雪害の恐ろしさを後世に伝えてくれる重要な石碑である。